Lipstick

――明日時間あるか?
八雲からかかってきた電話は、そんな一言から始まった。
何が起きたのか、晴香に理解できたはずがない。
「えっ?明日?どうしたの?」
――無理ならいい。
しかし八雲の返事はあまりにもいつも過ぎて、ますます晴香を困らせる。
「ちょ、ちょっと待ってよ。大丈夫よ、あいている、あいているから。」
あいていなくても、八雲の頼みならいくらでもあける。
悲しいかな。八雲と過ごす時間を増やすためなら何だってやってしまうのが私だという現実。
はーっと、深い、深いため息を八雲はついた。
電話越しでも聞こえるそれは、きっと今、八雲は頭を掻いているのだろうということを容易に想像させた。
ためらっているのかな?晴香には想像することしかできない。
――後藤さんの奥さんが、映画のペアチケットをくれて、もったいないから見に行って来いって言うんだ。
やがて八雲が重い口を開いた。
映画のペアチケット?私と八雲で?それってデート?
晴香の頭の中で一気に疑問が駆け巡る。
「行きたい。」
晴香は即答した。電話口から八雲の呆けた声が聞こえる。
無理もない、八雲の説明がまだ終わっていないところで口をはさんだのだ。
そもそも晴香は八雲の状況説明なんて全く聞いていなかったので関係なかったのだが。
――じゃあ……。
そう言って八雲は駅の改札口を待ち合わせに指定した。
時刻は正午。晴香は考えることなく快諾した。
電話を切った晴香は、さっそく翌日着る服について悩んだ。
これをデートと呼んでいいのなら、デートと呼べるデートは初めてのことになる。
まさか八雲から誘われるとは……。
そう思うが、緩む頬を抑えることは、晴香にはできなかった。

翌朝。晴香は念入りに化粧をした。
八雲からもらったネックレスを忘れずに付ける。
唇に紅をさす。うまくいくよう願いを込めて。
柄にもなく、恋の魔法に八雲君がかかってくれないかな、なんて願ってしまう。
待たせたらまた何か言われるんだろうな、そう思い、晴香は早めに家を出た。
もちろん十二時よりもずっと早い時間に駅に着く。
八雲はちゃんと来るだろうか。
私を見て何か言ってくれるだろうか。
緊張して、髪の一本一本にまで気になってしまう。
鏡を取り出しては、何度髪を直しただろう。
ミニスカートは履きなれているのに、映るたびに似合っているか気になる。
髪型は変じゃないだろうか。
服装は変じゃないだろうか。
大きな駅だけに、カップルの姿はたくさんある。
とても楽しそうで、それが晴香には妬ましい。
ふと隣の柱に視線を投げかけると、同じように胸を躍らせて人を待っている女性が見えた。
その表情、服装が、彼氏待ちをしています、とささやかながらに出張している。
私の場合は彼氏待ち、ではないんだよね…小さな影を胸のうちに落とす。
彼氏にならないかな、願うことはあっても、それはまだかなっていない。
ポケットに入っている口紅を握る手に、思わず力が入る。
八雲君が来ますように。
八雲君と楽しく過ごせますように。
ただただ、晴香はそう願うだけ。

早く来ないかな、と待っていると、ほんの一瞬視界をよぎる男性がみんな八雲に見えてしまう。
あれかな?と思っては、違うのかとがっかりする繰り返し。
そんな自分が馬鹿らしくも見える。なんでこんなにも八雲の姿を求めるんだろう。
「こんなところにいたのか。」
突然晴香の背後から、聞きなれた声が聞こえた。
晴香の待ち人、八雲だった。
「や、八雲君?!」
突然のことで、思わず驚く。
先ほどまでずっと八雲のことを考えていた、とは口が裂けても言えない。
「お、遅いじゃないの!!」
頬を膨らませて抗議する。
「悪かったよ。」
反省する色も見せずに八雲は言う。
そんな八雲の恰好は、全然気を使っていなかったんだろうなと思うと面白くない。
いつものように寝ぐせのついた髪型。
いつものようにだらしなく着られたシャツにジーンズ。
もう、昨日あのあと何時間にもわたって服装に悩んだ私が馬鹿みたい。
「いいから行くぞ。」
相変わらず膨れて立っている晴香に、八雲は言った。
いつまでもここにいるわけにはいかない。
この後は八雲と二人で映画を見るのだ。
「うん。」
晴香が頷いたのを見て、八雲は晴香に背中を向けて歩き出した。
その左腕を掴んで歩きたい、そんな衝動に駆られ、晴香は腕を伸ばすが、結局掴む勇気もなくて垂れ下がる。
おとなしく後ろをついて歩こうとした時、視線を感じて晴香は横を見た。
隣の柱にいた女性が驚いた表情を浮かべてこちらを見ていた。
何に驚いたのかは想像がつく。きっと八雲の左目だ。
八雲と一緒に行動するようになって、そういう人をたくさん見てきた晴香は、それ以上気にも留めなかった。

先に二人は映画館のチケット売り場へ行き、敦子からもらったチケットを交換した。
その時になって晴香は、今回見る映画が何なのかを知った。
友達の間で聞いた話だと、確か悲恋の話だったはず。
八雲に恋愛映画。似合わなさすぎる。
どうりで八雲がいつも以上に何の映画を見るかに対して口を閉ざすわけだ。
きっと敦子さんが喜々として仕組んだんだな、晴香はそう思った。
晴香は思わす笑ってしまい、八雲に冷ややかなまなざしを投げつけられた。
憮然とした八雲がかわいくて、逆効果ではあったのだが。
それから昼食を食べにファーストフード店へ向かった。
映画は一時半から。それまでの間はゆっくりできる。
ハンバーガーや飲み物を頼み、トレーは八雲が持った。
よしよし、ちゃんと紳士的なこともできるんじゃないか、晴香はにやける顔を必死に抑えようとした。
きっとすぐに、すべてをぶち壊しにする一言が降ってくるから。
「その気持ち悪い顔はやめてくれないか。迷惑だ。」
ほら来た。とは思うが、相手にすると余計ぶち壊しにしそうだから何も言わない。
今日は楽しい一日でいたいのだ。こんな些細な出来事で、すべてを水の泡にしたくない。
窓際の席を、二人で向き合う形で座る。
晴香は自分の食事よりも――
「どうしたんだ?」
気持ち悪いものを見るような眼で八雲は聞いた。
晴香の手の中には、包装紙に包まれたままになっているハンバーガー。
手が動く気配がなかった。
「ううん、なんでもない。」
頬を朱に染め上げ、晴香は首を振った。
八雲の食べる、その動作、指先に見とれていたなんて絶対に言ってやんない。
そんな晴香の心情は露とも知らず、なんでもないことと処理したのか、それ以上八雲は聞いてこなかった。

一時を過ぎると、道行く人の数は増えていた。
どこを見ても人ばかり。はぐれたら見つかるかなぁ、と思わず弱気になる。
それでも二人の腕はつながれない。
晴香の方は、もう何度と挑戦しているのだが、結局あと一歩が出なかった。
そしてまた繋ぐことをあきらめたその時……。
晴香は力強く腕を引かれた。
八雲の体温がより近くに感じられる。
晴香の心拍数は急上昇し、顔が赤くなっていることが感じられた。
「はぐれるなよ。」
八雲が言った。
そうだよね、はぐれたら迷惑だもんね。
八雲は私の手首をつかんだくらいで動じないもんね。
私はこんなにドキドキしているのに……。
八雲に掴まれた場所が熱を帯びていた。
晴香は顔を上げることができず、八雲にひかれるがままに映画館へ向かってまた歩いた。

映画を観終わった後、晴香は感動でしばらく泣いていた。
そんな晴香を八雲は冷ややかな目つきで見ていた。
片目が赤い男と彼女が泣いている。そのシチュエーションに周りの人がいかなる誤解を与えているのかは露知らず。
「そんなに泣けるのか……?」
本当に涙もろい奴だな、言外にその意味を含めて八雲が言う。
「もう、純愛じゃないの。命の尽きるまで愛されるなんて……。」
「死ぬ方はそれで満足だろうけれど、残される方は辛いだろ。」
悲しさに共感はできるが、同じような恋愛観は持ちたくない、ということだろうか。
あんなような恋がしたい、ではなく、あれよりもいい恋をする……八雲に恋愛は無縁な気がするのが悲しい現実だが。
ハンドタオルで涙をぬぐい、その場で八雲に待ってもらってから晴香は化粧室へ駆け込んだ。
思わず号泣して、化粧が少し崩れていた。
すっぴんを見られたことがあるとはいえ、化粧崩れの顔を八雲には見せたくなかった。
それに、デート中である以上、ちゃんとした恰好でいなくてはいけない。
たとえこれがデートでなかったとしても、晴香にとってはデートだ。
「ごめん、おまたせ〜。」
そう言って晴香は戻った。
八雲はそんな晴香に一瞥をよこした。
「どこか行きたいところ、あるか?」
うまく切り替わった風に装う晴香の姿が痛々しかったのか、それとも単純に気まずかったのか、場をごまかすように八雲が聞いた。
八雲と一緒に行く場所に心当たりがなかったので、晴香は首を振った。
むしろ、八雲と一緒ならどこへだって構わない。
そうか、そう八雲がひとりごち、晴香の手をつかんだ。
そして駅に向かう。恋人つなぎではないが、八雲と手をつないでいる、という現状に晴香は満足だった。
どこへ行くのかはわからないが、手がつながれている間は一緒にいていいということだから、どこへでも行くつもりだ。
八雲は何も言わずに切符を晴香に渡し、二人で電車に乗る。
帰る方向の電車。帰るのだろうか?疑問が頭をもたげる。
改札を通る時に離された手がさびしい。
手は電車を降りた後に再びつながれ、晴香が気づいた時には八雲のお寺の前に来ていた。
奈緒が大はしゃぎで晴香を迎える。
後藤夫妻が意味ありげな表情で八雲を見る。
晴香はくすりと笑った。
明日は一歩、関係が進展していますように―――
えっと、タイナカサチさんのセカンドアルバム『Love is...』収録曲『Lipstick』を八雲×晴香で描いてみた?(ヲィ
タイナカサチさんの曲は好きです。いい曲多いです。
『愛しい人へ』『抱きしめて』とか、結構好きな曲が多いです。
このあたりでもう五月雨の小説の傾向が分かるかと思いますが、五月雨のイメージ的に、晴香→泣き虫、敦子さん→八雲×晴香のためにあの手この手で仕組んでいるって感じらしいです(笑
これは、池袋辺りを頭に入れて書いていました。
サンシャイン通りってホント、人ばっかりですよねー。
人多すぎてはぐれそうだわ〜ってよく思います。

2008.4.25
微妙に加筆。

戻りませう