Lipstick 〜Side Y〜
「八雲君、ちょうどいいところに来たわ。」
八雲が玄関をくぐった時、不意に正面から声をかけられた。
見てみると、目の前に紙を二枚つきだして、後藤の妻である敦子が立っていた。
「ペアチケットが当たったんだけど、見に行く時間がなくて。せっかくだから晴香ちゃんとみてきなさいよ。」
紙を覗き込んでみると、恋愛映画のようだ。
確かに男が見に行くものではない気がする。
行くとしたら、カップル…。ただしあいつは彼女ではない。
あいつはこういうの好きかもな、ふと思う。
そして気づいた時には、そのペアチケットが八雲の手の中にあった。
受け取った以上、声をかけてみるか。
壁に耳あり、と言うのはまさにその通りで、八雲には動向を気にする六つの視線が痛いほど感じられた。
いっそ断ってくれれば恥ずかしい思いをしなくて済むのかもしれない。
そう思いながらも、八雲は打ち慣れた番号を押す。
もうすでに何回、この番号を打ったのだろう。
コールオン二つで電話はつながった。
誰かは名乗らない。初めのうちは僕だと言っていたが、オレオレ詐欺みたいだと後藤夫妻に言われるのはしゃくなので言わない。
それに最近の携帯電話は、アドレス帳に登録さえしていればディスプレイに発信者の名前が表示されている。
わざわざ言うまでもなかった。
「明日時間あるか?」
ぶっきらぼうにそれだけ聞く。
電話越しからでも、晴香が戸惑っているのが伝わる。
――えっ?明日?どうしたの?
理解できないっと言った声音。
無理もない。電話がかかってきて、唐突にそう言われたのだから。
「無理ならいい。」
むしろ無理であってくれ。
背後に潜む視線を感じながら八雲は願った。
――ちょ、ちょっと待ってよ。大丈夫よ、あいている、あいているから。
あわてて打ち消す晴香の声が、見事に期待を裏切った。
はーっと八雲は重いため息をついた。
ここまで来たら、戻ることはできない。
頭をがりがり掻いてから、八雲は晴香を映画に誘うことにした。
「後藤さんの奥さんが、映画のペアチケットをくれて、もったいないから見に行って来いって言うんだ。
ペアなんだから君を誘うべきだって、三人で訴えるんだよ。僕は見たくないから、君が友達と……」
――行きたい。
八雲の話をさえぎって、晴香がきっぱりと言う。
思わず、はぁ?と言う間の抜けた声が八雲の口から漏れた。
八雲の反応に不服があったのか、電話口から、だから八雲君と行きたいって言っているんだって、と拗ねた声が聞こえた。
今更行かないとは言えない。そして後ろにある視線がそれは許さないだろう。
「じゃあ……。」
あきらめともとれる声で八雲は集合場所を指定した。
とある都心にある大きな駅。学生がたくさん利用していて、乗換え路線もたくさん存在している。
そんな駅のとある改札口に正午に集合。
晴香は異論をはさむこともなく、承諾して電話を切った。
後に残ったのは、高揚感と諦めだけ。
「これでいいだろ。」
だれともなく八雲は言った。
奈緒が駆けてきて、いいなーなんて言う。
耳の聞こえない奈緒は映画が見れない。
――お兄ちゃん、楽しんできてね。お姉ちゃんいじめちゃダメだよ。
そんなこと言う奈緒がおかしくて、ついつい八雲は笑った。
――ああ、わかったよ。そのあとであいつを連れてくるよ。
――約束だからね。
――わかってる。
奈緒とそんな約束を交わし、八雲は自分の部屋へ向かった。
翌日。八雲はいつもと同じような格好で待ち合わせに来た。
家を出る時、後藤夫妻に今日くらいは…といろいろ言われたが、あえて聞かなかったふりを通した。
服装に気を使わなくなったのはいつごろからだろうか。
初めから気を使ってこなかったのかもしれない。
駅改札は乗換えや待ち合わせで、電車が着くたびにたくさんの人が通過する。
人の大波を前に八雲は舌打ちした。
もう少し、利用者の少ない改札にするべきだったか。
ぐるっと周囲を見渡してみると、見慣れた頭がすぐに見つかった。
このころには、後ろ姿、頭の一部でも見えればそれが晴香だと断定できる自信が八雲にはあった。
あくまでも、普段トラブルメーカーに巻き込まれて、嫌でも見つけなければならないからだと八雲自身は認識しているが。
「こんなところにいたのか。」
晴香の背後から、八雲はそう声をかけた。
「や、八雲君?!」
驚いた表情をした晴香が言う。
何にこんなに驚くのだか。
待ち合わせをしたのだから、いて当然だろと思わずムスッとする。
「お、遅いじゃないの!!」
晴香の抗議は終わっていなかった。
頬まで膨らませている。
もしかしたら昨日の電話でもそんな表情をしていたのかもしれない、と思うと目の前にいる女性がかわいく見える。
「悪かったよ。」
とりあえず彼女に謝る。
それでもその場に立って、面白くなさそうな顔を晴香はしていた。
「いいから行くぞ。」
そんな晴香にあきれて、八雲は言う。
「うん。」
それに対して晴香は素直に頷いた。
頷くことを確認して、八雲は先を歩いた。
背後から妙な気配を感じたのは気にしないことにした。
時々あいつの考えていることが分からない、それが八雲の晴香に対する評価でもあった。
ペアチケットはそのままでは使えないので、先に引き換えることにした。
早いので一時半の回だったから、一時半のを見ることにした。
その時に、晴香にペアチケットを見られたのは不可抗力だ。
君はそこで待っていてくれ、と言っても晴香はきかなかった。
歩く道中、晴香に、どの映画を見るの?あれ面白そうだね、と言った話をされたが、それはことごとく無視してきた。
何も知らない受付嬢は律儀にも確認のために映画のタイトルまで読み上げる。
チケットを渡されたとき、ひったくるように八雲はそれを受け取り、早足でその場を去った。
その後ろを、晴香は小走りで追いかけていた。
どこか楽しそうに笑う晴香の姿に八雲は冷ややかな一瞥を投げた。
だから行きたくなかったんだ。
心の中で叫ぶにとどめた。
そして二人でファーストフード店に入る。
おごるなんてことをもちろん八雲はすることがなく、会計は別々。
しかし、注文するとき、晴香は八雲にくっついてきたので、いらぬ気をまわした定員さんが、二人が頼んだものを一つのトレーにおさめた。
二人分を晴香に持たせるような鬼のことを、結局八雲はできなかった。
トレーを運ぼうとした晴香の手からトレーを奪い取り、先陣を切って八雲が前を歩く。
そんな八雲の様子がうれしいのか、晴香の顔がほころんでいた。
「その気持ち悪い顔はやめてくれないか。迷惑だ。」
先ほどからの仏頂面で八雲は言った。
一瞬、晴香の顔に抗議の顔色が浮かんだ。
だが、その口から言葉が紡がれることはなく、表情も元に戻っていた。
八雲はそんな晴香の様子を一瞥し、ちょうど空いた窓際の席にトレーを置いた。
二人席なので、晴香は八雲と向き合う形で座る。
八雲はそんな晴香にお構いなく、自分のハンバーガーを手に取り口へ運ぶ。
晴香もやはり、自分のハンバーガーに手を伸ばした。
しかし、とった後その手は動く気配を見せない。
それよりも、八雲に熱く注がれる視線が痛い……。
「どうしたんだ?」
晴香が自分を注視している、という自覚を持って八雲が聞いた。
何をそんなに見ているのか、八雲には理解できない。
「ううん、なんでもない。」
心なしか、耳が赤くなっている気がする。
首を振った晴香はそのままうつむき加減で食事をしていた。
そんな晴香に、八雲はかける言葉がなく、黙って食事を再開させるだけだった。
食事が終わり、しばらく二人は席を立たなかった。
一時を過ぎになって、二人はようやくファーストフード店を後にした。
その間、特別何か会話をしたというようなことはしていない。
いつの間にか、二人の関係に言葉は不要になった錯覚を受ける。
言葉がなくても伝わるものがある一方で、言葉がなくては伝わらないものがあることを知っているにもかかわらず…。
結局八雲が言ったのは、席を立つ合図のみ。
そして今、二人は映画館へ向かう道を歩こうとしていた。
引き換えるために通った時よりも、道を歩く人の数が増えていた。
人の波にもまれたら、簡単に離れてしまうだろう。
晴香の方へ視線をやると、ちょうど右手が伸ばされていた。
八雲はその手首をつかむと、グイと自分の方へ引き寄せた。
晴香の体が、ぶつかるかと言うくらい八雲に近づく。
「はぐれるなよ。」
八雲は体を少しかがみ、そっと耳打ちした。
それから八雲は晴香の腕をつかんだまま、まっすぐ前を向いて足早に歩いた。
いささかいつもとは違った空気に戸惑いを覚えながら。
後藤さんの奥さんのせいなのか、晴香の雰囲気がいつもと違うからなのか、と自問して。
見たくない映画と言うこともあり、八雲は半分寝ていた。
授業時もよく寝ていただけあって、暗い映画館と言うのは寝るには申し分のない環境だった。
本来寝ていたら猛抗議をあげるであろう隣の席の人は、熱中して見ていたので、それも幸いした。
実際映画が終わった後も、晴香は泣いていた。
本当に今日一日で何ミリ涙を流しているんだろう、八雲は不思議に思う。
晴香が映画で泣いていることを知らない赤の他人たちは、赤い眼をもった“奇妙な人”に泣かされたと映っているのだろう。
人と言う生き物は、自分と違うものに恐怖を覚えるのだから。
今となってはそんな視線も平気だと言えるが、それでも目の前で彼女が泣いているシチュエーションには戸惑う。
とりあえず泣き止んでもらえないだろうか、そう思って声をかける。
「そんなに泣けるのか……?」
しかし出てくるのは優しい言葉でも何でもない。
心底晴香の涙もろさにあきれたような声。
「もう、純愛じゃないの。命の尽きるまで愛されるなんて……。」
そんなのもわからないの、と言いたげな嗚咽交じりの晴香の声。
死者の魂を日常的にみている八雲としてみたら、そんなものなのかと疑問詞が浮かぶ。
それを感動している晴香に指摘するわけにもいかないので、別の言葉をかけることにした。
「死ぬ方はそれで満足だろうけれど、残される方は辛いだろ。」
それはあくまでも自身の体験談に基づいたもので。
どこまで晴香に届いたのか、それは八雲にはわからない。
晴香の涙はようやくおさまりを見せ、ハンドタオルで拭われた。
化粧崩れを起こした顔を見せたくないのか、顔をうつむき加減でハンドタオルで隠して、晴香は八雲にその場で待ってもらうよう頼んだ。
そして晴香は、八雲の答えも聞かずに化粧室へ駆け込んだ。
仕方ないな、そう思いながら八雲はその場で待つことになった。
「ごめん、おまたせ〜。」
そんな長い間もかけずに晴香は戻ってきた。
顔には精いっぱいの笑みを浮かべているが、その笑顔がどこか痛々しくて思わず八雲は顔をそむけた。
「どこか行きたいところ、あるか?」
折角来たのだ、何か予定があるならそれにつきあってもいいかもしれない。
八雲自身は奈緒との約束以外特別に予定も立てていなかった。
晴香は少し考えた後、首を振った。
用がないのにこのまま人ごみの中に残る理由はない。
そうか、と八雲はひとりごち、晴香の右手をつかんだ。
やはりはぐれないためだ。そして落ち着かせるためにも。
行先は駅。帰りの切符を買い、一枚を晴香に手渡した。
改札を通るときから手は離され、電車の中では空いている席に並んで座った。
電車に揺られて眠ったのか、晴香の頭が八雲の肩に当たった。
上下に揺られる頭が八雲の首を、肩をくすぐる。
八雲は嫌そうな顔をしたが、寝ている晴香を邪険に扱うこともできない。
「寄りかかって寝るなら、はじめからやってくれたらいいものを…。」
晴香の頭を自身の肩口に押し込むように手を当て、八雲はそれとは反対の方向を向いた。
実は晴香が寝ていなく、八雲の体に密着しているために余計眠れなくなったことを八雲が知るのはもう少しあと…。
目的の駅にそろそろ着こうかと言う時に、晴香は体を起こした。
「やっと起きたのか。」
あきれた口調で八雲は言う。
「えっ?あ、うん。」
それに対する晴香の返答はなぜかしどろもどろだ。
そしてその両耳は真っ赤に染まっている。
八雲は何か言おうと口を開いたが、結局目的の駅に着いてしまったので言葉を発することはなかった。
再び改札を通り、真っ赤になっている晴香の手をつなぐ。
そのまままっすぐ、お寺へ向かう。
その間、やはり一言も言葉を交わすことはなかったが、この時間が短く感じられた。
二人の気配に気づいた奈緒が晴香に飛びつく。
ニヤニヤ見つめる後藤夫妻の視線に気づき、八雲は晴香の手を話した。
「なんですか。」
後藤に近づいて、八雲が言った。
「いや、なんでもねえ。」
そういう後藤の顔はこみあげてくる笑いをおさめられないと言った風だ。
その様子が面白くなくて、八雲は不貞腐れた表情を浮かべる。
――お姉ちゃんが、電車の中でずっとドキドキしたって言ってるよ?何があったの?
そんな八雲に声をかけてきたのは、従妹の奈緒。
晴香に楽しかったか聞いたら、最後の方で小声でそんな独白をしていたらしい。
ずっとと言う言葉に八雲は引っかかりを覚えた。
「君は、起きていたのかい。」
晴香のもとへ歩を進めてから、小声で八雲は尋ねた。
もぞもぞとした晴香が、小さく肯定する。
恥ずかしさと言う名の気まずい空気が流れた。
「だ、だって、うとうとしてたらいきなり八雲君の手が…!」
気まずさから言い訳するように晴香が言う。
「ほう、八雲も手が早いな。」
ニヤニヤしながら後藤が近付いてきた。
先ほどから後藤は表情を変えていない気がする。
「頭をつんつん突っつかれるのが迷惑だったからです。後藤さんじゃないんですから。」
睨みをきかせて八雲が言う。
あれでも…と物言いたげな晴香の口は右手で押さえておく。
寝ていると思って、晴香の頭に当てた手は、晴香が起きるまでそこにあったなんて言われた日にはどうなることやら。
後藤は、あとは若いのに任せるかと言った風に背を向けて寺の中へ入っていく。
敦子も夕食の準備といつの間にかいなくなっていた。
歩く騒音はなぜか静かにいた。気になってそちらに顔を向けると、奈緒と見つめあっている。
二人で何か話をしているのだろう。
――お姉ちゃん、うれしかったんだって。だから狸寝入りを決め込んだんだって。
八雲の視線に気づいた奈緒が、晴香との会話内容を報告してきた。
「寝る気はなかったのかよ。」
奈緒の報告を聞いて、思わず悪態が口をつく。
「えっ?」
その八雲の悪態が聞こえたのか、反射的に晴香が聞き返した。
「何でもない。」
面白くなくなり、八雲はぶっきらぼうに言う。
「だって、うとうとしていたときに、そんなことされたから、眠れなかったんだもん…。」
でも次からは、眠くなくてもそうする〜と喜々として晴香が言う。
いつものような一言が、このときの八雲には出せなかった。
そして、奈緒に引っ張られるように二人は並んで寺の中へ入った。
昨日までとは違った関係を、八雲は確かに感じた――。
ってことで、Lipstickの八雲サイドです。
絵板落書きで、狸寝入りのネタをこっちに変えてみました。
…狸寝入りが全然入っていない気がする(汗
まぁ、すべて終わったら、当初の予定どおり後藤夫妻で書いてみたいな、と思います。
とゆーか、Lipstickは佐知子サイドが最初から存在していて、晴香サイドと佐知子サイドの二本だけのはずだったんだけどなぁ…。
それは、敦子さんの陰謀(違)を描ききれなかった自分のせいですね、はい。
戻りませう