drop out -Side S-

誰なんだろう。
そう思いながらもシャウトは目の前にいる人物から目を離せずにいた。
もちろん名前はわかる。みんなが彼を、そう呼んでいるから。
本来シャウトも知っているはずだったらしいが、今のところシャウトは彼のことだけを忘れていた。
答えを求めるように、病院に来てからの出来事をシャウトは思い返していた。
目が覚めた時、知らない人がシャウトをのぞき見ていた。
すごく不安げな表情を浮かべていて、知らないはずなのになぜか安心感を覚えたのをシャウトは覚えていた。
そう、その人物こそが今目の前にいる人物だったのだ。
彼はシャウトが目覚めたのを知るや、ほかのみんなに連絡を取りにシャウトから離れた。
だから彼がシャウトから、誰なのか聞かれたのはほかのメンバーがそろった後の話だ。
その時の彼の傷ついた表情を、もしかしたらシャウトは一生忘れないかもしれない。
そしてその表情を見たとき、シャウトは、彼はもう来ないのかもしれないと残念に思ったのだった。
しかし彼は来た。ほかのみんなと違い、毎日来た。
シャウトの体調を聞いたり、身の回りの世話をしたり、何かとシャウトのことを気にかけてくれた。
身の回りといっても、シャウト自身はそこまで問題はないので、大抵のことは自分一人でできる。
だが、病院からは出られないので、色々とほしいものとかは彼に頼むしかなかったのだ。
どんな願いも嫌がらず、聞き入れてくれる姿はなぜかわからずもこそばゆくもあった。
確か彼は婚約者だったのだから、それは無理もないのかもしれない。
そうシャウトは回顧する。
目が覚めた後、みんながそろった時ガングがそう言っていた。
シロボンはおいしいものが食べられないことを心配していた気がする。
「どうしたんだ、シャウト。」
シャウトの視線に気づいた彼はそう尋ねた。
心なしか表情が柔らかい気がするが、それはシャウトに警戒されないためだろうか。
「ううん、何でもない。」
シャウトはあわてて否定する。
唯一記憶から欠落したらしい人物のことを、シャウトはいまだに負い目を感じていた。
だからこそ、思いだせるだろうかという思いでずっと見ていたとはいえないでいた。
「そう言えば、退院できるんだっけ。」
微妙に変化した空気がいたたまれなくなり、シャウトは話題を変える。
彼と共通する話題は、記憶を失ったシャウトには分からない。
また、婚約者であったらしいことから迂闊に他人の話題は出せないような気がしていた。
そうなると必然的にシャウトから話しかける話題はシャウト自身のものになる。
「そうだな。夏海館の常連客もみな心配していたから、喜ぶだろ。」
彼はそう頷いた。

医者の話によると、シャウトは彼一人に対する記憶を欠落した以外は記憶に問題がないらしい。
外傷と目が覚めるまでの間ずっと寝ていて低下した筋力はリハビリによって回復している。
今では入院前と変わらずに体が動かせるようになった。
記憶の欠落は入院していても治るものではないので、これらのことを総合した結果がこれだ。
退院に際して心配事があるとしたら、それもこの記憶の欠落にまつわることだけだった。
というのも、シャウトはその欠落した記憶というものが小さなものでないことを認識していた。
あまりにも大きくて、その代償として大きな虚無感を背負っている。
一歩脇にそれればすぐに、大きな不安がシャウトにのしかかっていた。
なんで忘れたのか。何があったのか。なんでこんなに苦しいのか。
得られた情報は知識として蓄積されたが、その情報が重大であればある程シャウトを苦しめた。
もしかしたら彼はそれを知っていて、自分のことを語ろうとしないのかもしれない。
苦しめられる都度、シャウトはそうも思う。
彼がいるときは不思議と苛まれることはないのだが、いないときは覚えていないことに対して苛まれ続けていた。
入院中、発狂して錯乱状態になったことも一度や二度ではない。
その時、看護師たちは無力になる。
彼女らの声はシャウトの耳には届かず、何の助けにもならなかった。
その時はちょうどそのタイミングにたまたま彼が見舞いにやってきた。
暴れるシャウトを力強く抱きしめ、何か彼の低い声でささやかれた。
何を言っていたのかは今でもわからない。
ただ、とても心地よかったのだけは覚えていた。
そうして抱きしめられていると、不思議とシャウトは落ち着くのだった。
落ち着き、あたりを見渡してみるとすぐ近くに彼の顔があり、不安げにシャウトの顔をのぞき見ている。
看護師たちは不安げにおろおろとみているだけ。
彼は、シャウトと目があったことに気付くと決まって、『大丈夫か?』と聞いた。
彼が頼んだからなのか、それ以降シャウトがこのような状態になると看護師は必ず彼を呼んでいた。
退院したら、この状態がどうなるのか、それが心配ごとのひとつなのだ。
もちろんこれも、病院にいてもどうにもならないものなので、シャウト本人もこのような状態を自覚したうえで退院を希望した。
もっとも、お店の手伝いでそのようなことを考える余裕はなくなるのかもしれないのだが。

「不安なのか。」
退院の話題を出したにもかかわらず浮かない顔をするシャウトに、彼はそう聞いてきた。
うん、とシャウトは小さく頷く。
彼は、そうか、と相槌を打つだけだった。
見知った街のはずなのに、彼一人を忘れただけで見知らぬ街のような気がするのも不思議な話ではある。
そのことを自覚すると、それだけ彼が大切だったのだと知らされて、辛くなる。
日常生活は滞りなくこなすことができるだろうが、その代り何かが蓄積されていくのだろう。
そのとき彼はそばにいるのだろうか。すぐに来てくれるだろうか。
そして常連さんに迷惑をかけなくて済むだろうか。
そのような思いが胸をよぎる。
「なあシャウト。お前さえよければ、一緒に暮らさないか。」
彼は何気なくそう提案したのか、言った後でしまったという表情をした。
シャウトは目を大きくして、彼をじっと見つめるしかできなかった。
記憶を失ったシャウトにしてみれば、目が覚めたら見知らぬイケメンに同居を申し込まれたのと同義だ。
もちろんその前までにいろいろあったのだろうが、覚えていないのだから仕方がない。
断る理由はないのだが、そもそも忘れているという負い目があるのだ。
妙に重苦しい空気を漂わせているだけだったら、逆にいたたまれない。
「今のは忘れてくれ。」
シャウトの反応を否定と取ったのか、顔をそらして彼はそう言った。
だが、それがシャウトと彼の距離をますます遠ざけそうでシャウトの胸を鈍く刺した。
「違うの!」
咄嗟にシャウトはそういう。
無意識に身を乗り出させていた。
「本当に、あたしでいいのか……。」
今度はシャウトが顔をそらせる番だった。
心もち下を向いてしまう。
彼を覚えていないあたしがそばにいていいのか。
求めるばかりで、これ以上彼に迷惑をかけていいのか。
こんな状態になったのに、まだあたしのそばにいると言うのか。
そんな思いが渦巻いて、シャウト自身自分がどう思っているのかわからない状態になっていた。
「当たり前だろっ。」
苛立ったような口調で彼は言った。
だけど、怒っていないことはこの数日の付き合いでわかっていた。
「もともと一緒に暮らすつもりだったんだ。記憶があろうとなかろうと、これから一緒に思い出ってもんを作りたいと思うかどうかが問題だろ。」
彼は顔をそむけたままそう言った。
語気は強いが、きっと照れているのだろう。
「それじゃ、式はどうするの?」
なんとなく、聞いてみようと思った。
それが正直なところだった。
みんなの反応からは、おそらく身内だけのささやかな結婚式を挙げる予定だったのだろうとシャウトは推測していた。
シャウトの質問が意外だったのか、今度は彼のほうが目を大きく見開いた。
「お前、いいのか?!」
そう彼が言った。
「知らない男と一生一緒にいようってことだろ。」
どうやら、先ほどまで彼が言っていたことは完全に棚の上に追いやられたようだ。
「うん、でも、あたしが知っていたかもしれないこと含めて、これからもっと知っていきたいなって思うのはダメ?」
シャウトはそう聞いた。
お願いするときは上目遣いに尋ねるのがいいとどこかで聞いたことがあるが、はたしてこの場合も通用するのか。
シャウトにじっと見られるのに耐えられないのか、彼は顔をまたそらせた。
そして聞き取れるか聞き取れないかの小さなかすれ声で、考えさせてくれと彼は頼んだ。

数日後、シャウトは退院した。
自分の部屋から荷物を持ち出し、彼の家へ引っ越しした。
そこから毎朝、シャウトは実家である夏海館へ行く。
たいてい彼がタクシーで送ってくれるので、いつも使っていたスクーターは実家に置いてある。
彼が言うように、夏海館の常連客はシャウトの復帰をとても喜んでいた。
彼も時々昼食を食べに来ていた。
記憶は相変わらず戻ってくる気配がなかったが、シャウトはその生活に順応してきていた。
欠けた分を補っても余るくらい、温かさがシャウトの周りを包んでいた。
そのため、不安や恐怖や孤独といった負の感情に苛まされることもほとんどなかった。
今という一瞬一瞬を過ごすだけで精いっぱいだったこともあるが、記憶を取り戻そうと必死になることもなくなった。
ある時、シャウトは思い出せないことを彼にわびたことがある。
その時彼の言った、思い出したいことなら、焦らなくてもきっと思い出せるから大丈夫だと言う言葉を信じることにしたのも理由の一つに挙げられる。
記憶が欠けてもシャウトはシャウトなのだ。
一人になることはなく、支えてくれる人は存在している。
記憶が欠けたからこそ、この支えがありがたいと強く感じられるようになった。
いつか、何か返せたらと想う。
もらってばかりではなく、何か与えられたら、と。
彼の喜ぶ顔が見たいから。ふと心の中に湧き上がる感情。
記憶を失っても、彼を慕う思いだけは喪われなかったのだということに気づく。
そして、そんな未来に思いをはせながら、シャウトは“今日”を彼とともに歩む。
先が見えなくても、彼がそばにいる限りその日は来る、不思議とシャウトはそう確信していた……。
お題にある『喪失』のネタを詰めて言ったらどうしても、バーディを忘れたシャウトで小説が書きたくなってしまいましたorz
記憶喪失ネタはこれが三作目ですが、部分喪失はさり気に初めてです。
オリジナルの影響か、時系列をそろえないと気が済まなくなってしまったので、そうなると間に入れられるのはSmileの後しかなく…
なんかこのあたりの時代が一番キャラ崩壊しているなーと思いつつ…。
そして分量的に記憶を取り戻す話とは別にしました。再び。
どうしてシャウトが記憶を失うに至ったのか、その辺はバーディサイドでフォローする予定です。
というか、アレですね。バーディの名前は知っているけれどバーディを忘れたシャウトという設定なので、バーディの名前は出さない方向で頑張りました。
本当は、『さんづけしたかったけれど、そうすると怒られるのでたどたどしくバーディと呼び捨てするシーン』を入れたかったり。
でもバーディは、記憶を失っているからこそシャウトに優しそうなイメージがあったもので…。
怒るに怒れないけど、ため息とかなんかでバーディさんって呼ばれるのだけは拒否していそう。
というか、バーディの目力が怖くって思わずさんづけしそうになった、っていうほうの設定だったんだけど、なんか怖くないんだもん、バーディ。(笑
まぁ、ここまで読んでいただきありがとうございました。

戻りませう