満点の星空

人の喧騒から逃れるように晴香は「映画研究同好会」の戸をくぐった。
部屋の主も、この時期の学生に違わずノートを広げていた。
「なんだ君か。」
顔も上げずに八雲は言った。
「見て分かるだろうけれど、今日は忙しいんだ。用がないなら帰ってくれ。」
相変わらずテキストとにらめっこして八雲が言う。
普段、寝起き姿か捜査姿しか見ない晴香にしてみれば、八雲の勉強姿は珍しい光景。
どうしても普段は大学に居ついている探偵姿にしか見えないから、こういう時に初めて、八雲も学生だということに気づかされる。
「別に私もここで勉強したっていいじゃない。」
そう言って晴香は自身の定位置に座った。
「ここじゃなくても、勉強場所はいくらでもあるだろ。トラブル持ち込まれたら、こっちの勉強ができない。」
顔を上げた八雲は、心底嫌そうな顔をした。
「そんなこと言われても、私だってトラブルは持ち込む余裕がありません。図書館は人であふれかえっているんだもの。いいじゃない。」
晴香はそんな八雲を無視して、鞄からノートと教科書を取り出す。
教科書に挟まれた紙を目印にページをめくる。
紙には過去の授業の要約や、ポイントなどをカラーでワープロ印刷されていた。
そう、今は試験期間だったのだ。
それゆえに、図書館は試験勉強をする学生であふれかえっていた。
ふだん静かなその場所は、同じ場所とは想像できないくらいうるさくなっていた。
晴香はその現場を図書館の入り口で見、ここまで引き返してきたのだった。
「なんだ、それ。」
八雲が晴香の教科書に挟まれた紙を指差した。
それは、晴香のクラスメイトの作った試験対策のプリントだった。
「シケタイよ。クラスで分担されなかったの?」
そう聞きながらも、八雲に分担はまわされないだろうなーと晴香は思った。
人と距離をとる八雲は、人との共同作業に燃えるようには見えない。
「いや、存在すら知らない。というよりも、クラスメイトすら把握していない。」
八雲らしい回答だ、晴香はそう思った。
きっと八雲にとって関わりのある何人かを除いた他者は記号と同義なんだろう。
いてもいなくても、たいして変わらない存在……。
そう考えると、晴香は“何人か”に分類されるという現実にくすぐったい思いを感じた。
「そうなんだ。まあ、試験対策はあくまでも作っている人が山を張ってみんなで共有するって感じだからね…。当てにするものではないんだけど。」
八雲君なら大丈夫だよ、晴香はそう言って勉強の方に戻った。
無責任なこと言うなよ、と言いたげな苦笑を浮かべて、八雲も勉強を再開させた。

カサカサカサ……
紙の上を鉛筆がこすれる音が響く。
ペラ…ペラペラ……
ページを繰る音が聞こえる。
それ以外の音は聞こえず、また耳に不快感を残さなかった。
不思議と携帯が鳴ることはなく、後藤刑事が来ることもなかった。
八雲と一言も会話はしなかった。
試験教科が全く異なる者同士、勉強について話すことなどなかったのだから当たり前ではあった。
しかし、その静けさが心地よかった。

ふと晴香が顔をあげたとき、窓の外はすっかり暗くなっていた。
もう日が沈んでだいぶ時がたっている。
集中が途切れたことによって、申し訳程度におなかが空腹を訴えた。
そういえば、もう夕食時の時刻になっていたのだ。
とりあえずチョコレートでも食べて、空腹をしのごう、晴香はそう思い立ち上がった。
「映画研究同好会」、この部屋の冷蔵庫に晴香が買いだめしたチョコレートが保存されているのだ。
「キャッ!!」
突然部屋が暗くなった。
そこにあるはずの八雲の顔も、窓から入ってくるはずの外の明かりも、何も見えない。
急に暗闇だけの世界に一人取り残された錯覚がする。
晴香はパニックになって、何がどうなっているのか把握できずにいた。
「や、八雲君…っ?」
馬鹿の一つ覚えではないが、晴香は困った時に唱える名前を口にした。
晴香が困った時、決まってそばに駆けつけ助けてくれるのがこのひねくれ者だった。
同じ部屋にいるはずなのに八雲の姿の見えない今は、八雲のいないただの暗闇にとらわれている気分だった。
オロオロしている晴香の肩に、ふいに人のぬくもりが感じられた。
「大丈夫、停電だ。」
八雲の声が聞こえた。
声のした方を振り返ってみてみると、八雲の優しい赤い眼が見えた。
暗闇の中でもまるで自らが光っているかのように、はっきりとその眼は見える。
“普通の人”ならその現象に驚き恐れるのかもしれないが、晴香はその赤い眼を見ると不思議と落ち着くのだった。
「そう……。」
安心はしたものの、会話は続かない。
このまま立っていてもどうしようもないが、かといって真っ暗な中を歩いて席に戻れる自信がない。
むしろ、座ったところでやることが思いつかない。
そんな晴香を知ってか知らずか、晴香の手に何か固いものが触れた。
最初に触れたところは少しザラザラしていて、筒状の物体がそのままスライドされる。
少しいったところで、その筒は少し小さくなった。
そしてすぐに突起物にぶつかる。スイッチだと気付いた時、晴香は反射でスイッチを入れた。
手に握られていたのは懐中電灯……。
「どうせしばらくはこのままだ。少し外にでも出るか。」
そう言って八雲はスタスタと扉の方へ歩いて行く。
晴香は手にした懐中電灯で足元を照らしながらあわててそのあとを追った。

外は田舎にいると錯覚するほど暗かった。
いや、建物で覆われている分、いっそう暗いのかもしれない。
街灯も何も灯っていない……
停電しているのだから当然といえば当然なのだが。
晴香は懐中電灯の明かりを頼りに八雲のもとへたどりついた。
八雲は黙って空を見上げていた。
晴香もその隣に立ち、空を見上げた。
「きれい……。」
思わず声が漏れた。
普段都心では、常に漏れる街明かりで見える星の数は少ない。
普段見えない星も、こういう時は見えるようになる。
風が晴香と八雲の髪を揺らした。
晴香の体はぶるっと震えた。
無理もないのかもしれない。
冬場に、部屋にいた時と同じ格好で、外で立ち止まっているのだから。
晴香は手袋などを部屋に置いてきたことを後悔した。
しかし、戻ったところで見つけられる自信がない。
はーはーと、晴香は手に息を吹きかけた。
その手に、違う手が重なる。懐中電灯がもぎ取られる。
晴香は驚いて顔を上げた。
八雲はわざとらしく顔をあさっての方向に向けている。
「どこへ行こうか?」
ごまかすように八雲が聞いた。
電気が止まっている今は、コンビニも入れないだろう。
どこへ行っても暖房器具も止まって寒いのなら――
「いいよ、ここで。電気が戻るまでここにいよう。」
晴香が言った。
空腹も寒さも、手から伝わるぬくもりが感じなくさせてくれていた。
電気が戻ったらどこへ行こう、ふと晴香は思った。
試験勉強がまだ残っている、そんなプレッシャーは吹き飛んだ。
「そうか……。」
八雲が小声でつぶやいた。相変わらず空を見上げたままだ。
そして、そのまま晴香の右手を引っ張り、自分のコートのポケットの中に入れる。

「勉強……。」
ぽつりと晴香がつぶやいた。
八雲は片方の眉をあげて怪訝そうに晴香の方を向いた。
「本当に私ってトラブルメーカーなのかな…。」
停電は自分のせい、とは言えないのだが、どうして八雲と一緒のときにこんな目に遭うのだろう。
八雲に迷惑をかけたくないって思う時ほど、迷惑をかけている気がする。
「君のせいじゃない。」
そんな晴香の心情を察したのか、八雲がきっぱりと言った。
右手を握る手に力が加わる。
それでも浮かない顔をする晴香の目の前が陰に包まれた。
少しして、唇に何かが触れる感触。
晴香が驚いて目を丸くしたときにはもう離れていた。
酸欠の金魚のように晴香は口をパクパクさせた。
「おまじないだ。」
テストで良い結果が出るための、ぶっきらぼうに言う言葉からそう感じ取れた。
八雲の顔はまた、あさっての方向に背けられている。
何が起きたか把握した途端に、晴香は顔が熱くなるのを感じた。
そうこうしているうちに、電気という電気が瞬き、再びついた。
「戻るか。」
八雲は晴香の右手をポケットに入れたまま歩き出す。
晴香は引っ張られるがままにそのあとを歩く。

停電によって貴重な勉強時間のいくつかが失われた。
しかし、それ以上に貴重な時間を得た気がする。


あなたがそばにいてくれる限り、
私は無敵になれる。
テーマが「停電」ということで。
まず真っ先に思いついたのが、小学時代夏休みに祖母の家に帰っていた時のエピソードでした。
夏の風物詩、というわけではないのですが、必ず一度は停電が起きまして。
昼間の時は暑い中扇風機も止まって悲惨なんですが。
夜の時は、ろうそくで明かりをともして、そのおぼつかない明かりを頼りに椅子を運んで外で星を見たりして涼んでいた記憶があります。
それを八雲×晴香で当てはめようとして、考えに考えた結果、テスト勉強という形になりました。
はじめは自分が体験したのが夏だということもあって、夏にする予定だったのですが、夕食時に既に暗くなっているとなると、冬しかあり得ないので、冬に…
後、気付いているでしょうが、初めのタイトルは「満天の星空」でした。
テスト期間ということもあって、「満点」に変えました(笑
季節外れネタで申し訳。

戻りませう