失いたくない

人間観察を楽しむ苗床が来ない、この事実はクラスメイトである椿を不安にさせた。
いくら本人が人間観察を卒業したとか何とか思っていても、彼女の観察眼は相変わらず健在だ。
何年にもわたって培ってきた癖と言うのはそう簡単に抜けるわけでもない。
椿自身としては、その観察眼は時に恐ろしく、それでいて彼女の長所だと思っていた。
観察という行為自体は決して悪いことではない。
しかし彼女は、その行為を悪いものとしてとらえている傾向がある。
親しい人を観察することは失礼だと捉えているみたいなのだ。
でも、親しいからこそ相手を知りたいと言う思いや、相手の些細な変化に気づくことが出来ると言うのは普通のことではないのだろうか。
それに必要なのは、彼女のいうところの観察に他ならない。
そこさえ気づいてくれれば、自分の立場も少しは楽になるのではないかともう何度考えたことだろうか。
そこまで考えたところで、椿は本日何度目かわからないため息をついた。
たとえ女々しいと言われたとしても微塵も気にする様子を見せず、ただ名残惜しげに教室の入り口をいつまでも見続ける。
教室中に響く教師の声も上の空、だ。
耳から入って、反対の耳から外へすり抜けてしまう。
――早く来いよ、苗床。
ドアを見つめながら、そう思う。
今はまだ一時間目が始まって間もない時間。
今来れば、遅刻で済む。
一時間目を欠課したら、もしかしたら家に電話が行くかもしれない。
無断欠席となれば学校が心配するのは無理もないだろう。
もっとも、入学式の件もあって、担任は椿なら事情を知っていると思っているきらいもあるが……。
その時はなんと言い訳を言えば家庭への電話を阻止できるだろうか。
いや、それ以前に、彼女はなぜ学校に来ていないのか。
あれほど家のことを気にし、問題を起こさないよう必死になっている彼女だ。
体調を崩して学校に連絡を入れているだけかもしれない。
そう思うものの、昨日あんなにピンピンしていた人間がそうすぐに学校に来られないほど体調を悪化させるものだろうかという疑問で即座に打ち消される。
それに、自分に連絡が来ないのはどうもいただけない。
連絡、という言葉が出たところで椿ははっとした。
もしかしたら連絡が来ているかもしれないと思い、椿はこっそり携帯を確認する。
携帯は、学校では電源を切るよういわれているがそんな決まりを守る高校生は少ない。
着メロやバイブはうるさいので、みんな必然的にミュートにしているから画面を見なければ本人たちも気づかない。
だが、椿の携帯には何の新着サインもなかった。受信したら点滅する照明も、光る気配を見せない。
画面を開いても、電話がかかってきた形跡や、メール受信のマークも当然のごとくなかった。
授業中の今は電話できないから、こっそりメールでも送ろうか。
少なくとも、椿が心配していることは伝わるだろう。
そう考えたところで、彼女は気付かないだろうと言うことに思い至る。
一度興味を持ったところに首を突っ込んだら、周りが見えなくなるのが彼女だ。
椿の存在なんて、所詮彼女にはその程度なのかもしれないと思うと空しくなる。
興味対象を見つけたら、かすんでしまう程度の友人でしかないのか、と。
こっちはこんなに、お前からの連絡を待ち焦がれているのに――
そこに恋愛感情があると言うことを認めたら、何かに負けた気がして認められない。
確かに椿自身は、彼女に対して恋愛感情を抱いていることを認めている。
ギャラリーが何を言い、何を思っているのかは関係ない。
椿自身が守りたいと思っていることがすべてではないかと思う。
不釣り合いだとかそういうことを決めるのは周りではないのだから。
しかし、それとこれは別だ。
連絡がほしいと願っているのは、単純に友達として、クラスメイトとして彼女を心配しているだけ。
決して自分で解決しようとかたくなになっている彼女に甘えてほしいとか、花井に負けたくないと思っているとかではない。
何度も何度も、自分をとりつくろうようにそう言い聞かせる。
「椿、この問題の答えを言ってみろ」
そんな椿の葛藤をよそに、先生は椿を当てる。
指名とともにクラス中の視線が椿に集まる。
きっと、授業を聞いていないと思って先生は指名したのだろう。
俺の様子がおかしいと気付いていたなら、空気読めよと内心思うがそれは口に出さない。
幸い一時間目の授業は数学だったので、椿は黒板を見て何をやっているかと、何を聞いているかをすぐに理解することができた。
説明の合間にあてただけなので、そう難しいことは聞かれていない。
さすがに問題を解けと言われているときに問題を解くふりすらしないという真似はしていない。
だから、初めから問題は難しくないとわかっていた。
つまらなさそうに、それでいて正解を椿は瞬時にこたえる。
それを合図に、みんなの視線は再び黒板に向けられる。
椿が答えたことによって、中断された説明は再開される。
授業は淡々と進んでいくが、椿は探しに行きたいという欲求を必死に抑えるのに精いっぱいでとてもではないが、授業どころではなかった。

休み時間が始まるかというタイミングで椿の携帯が鳴った。
いや、ミュートになっているので、正確にいえば点滅したのだが。
ディスプレイに表示された名前に、椿は息をのむ。
無機質に表示されたその名前は――苗床かのこ。
まさに椿が連絡を取ろうかと考えていたその人だ。
画面に表示される受話器の画像。どうやら電話のようだった。
自然と通話ボタンを押そうとする指が慎重になる。
通話状態になったとたんに上がった心拍数を必死に抑え、いたって普段通りの声を出そうと自身を落ち着かせる。
「……苗床?」
それでも震えてしまう声で、椿はそう受話器に向かって言う。
なかなか返ってこない返事に、耳を澄ませて彼女の声を聞き取ろうとする。
今の椿なら、どんな些細な音でも、どんな騒音の中でも、彼女の声だけは聞き分けられるだろう。
一秒、二秒、三秒……。
そんな椿をあざ笑うかのように、いくら待ったところで恋い焦がれた彼女の声は聞こえない。
その代り電話の先で何かおかしな事態になっているという、不穏な空気が伝わってくる。
――きゃっ!な、何すんのよ!!
悲鳴と、ドンっと言う強い衝撃音とともに、ようやく彼女の声が聞こえた。
それは受話器に向かってと言うよりも、そこにいるであろう誰か他人に向かって、と言ったところが正しいだろう。
思わず叫びそうになった声を、ぐっとこらえる。
彼女の悲鳴一つで、今が授業中であるということを忘れかけていた。
――お譲ちゃん、探偵ごっこはやめた方がいいよ。
くっくっくと笑う男の声が、かすかに拾われる。
ほんの二言の会話のやり取り。
それだけで十分、何か事件に彼女は巻き込まれたのだろうと推測するのはたやすかった。
彼女を助けなければならない。迷わず椿はそう決断する。
この際授業なんか関係なかった。
まだ一時間目とはいえ、そろそろ終わる時間帯だけにみんな早く終わらないかとそわそわしだしていた。
椿はそんなクラスメイトの様子をしり目に、わずかに漏れる音から彼女の居場所を割り出す。
頭の片隅で一瞬、自転車はどうしたのだろうと疑問がわきあがるが、これまた次の瞬間には消える。
――頼まれたってしないわよ!
負けじと、にらみ返しているであろう彼女の姿が容易に想像できる。
彼女が困っているのだ。自分が何とかしなくては、誰がこの窮地を救えるだろうか。
手掛かりがないからってあきらめられるようなものではない。
それで一生の悔いを残すくらいなら、最後まで彼女を探すため奔走するほうがずっといい。
彼女が見つかるまで、あがき続けることしか選択肢に初めからなかった。
あてがない以上、とりあえずは彼女の通学路を通って何か手掛かりを探すしかない。
椿は携帯に耳を当てたまま、教室を飛び出した。
一瞬、クラス中のすべての視線を浴びた気がしたがそういうのを気にする余裕がなかった。
教師含めて、椿に何か声をかける人間がいなかったというのもある。
おそらくみんな、椿の切羽詰まった顔を見て声をかける機会を失ったのだろう。
脳内はただ彼女のことで占められ、貴重品とかそんなほかに本来大事であるものに対する考えはとうの昔に消えている。
持ち物は携帯一つのみ。そのほうが軽いし、迅速に行動しやすい。
今は一刻も早く、彼女のもとへ辿り着きたかった。

さんざん走りまわった末に、椿はようやく彼女を見つけた。
最初に電話がかかってきた場所からは大分移動している。
男に運ばれるときに気を失わされたのか、彼女は気を失った状態で壁に寄り掛かって座っていた。
携帯は見えないが、おそらくスカートのポケットにでも入っているのだろう。
今もまだ通話状態にあり、目の前で繰り広げられていることと全く同じ音声が拾われているからだ。
もし途中で携帯の存在が気付かれていたら、椿がたどり着くのにさらに時間がかかっていたかもしれない。
ちなみに、彼女の他の荷物は道中落ちていたものを自転車含めて椿が回収している。
これも一つの目印としての役割を果たした。
視線を周囲に向けて見る。
彼女に視線を投げかけているのは、どこかいかつい感じの男が三人ほど。
彼女の処遇について話しているのだろう。
携帯越しにどうするかという声が漏れ聞こえる。
相談に夢中で、不意を突けば彼女を取り返すことくらいはできるかもしれない。
しかし、ここに四人目がいた。見張りのために、周囲を警戒した一番厄介な奴だ。
いくら椿が男だからと言ったところで、所詮は十六になったばかりの少年。
しかもこの場には椿一人しかいない。
大人の男四人を相手にするには分が悪すぎる。
彼女の事情を考えればあまり乗り気はしないが、ここは警察を頼るしかない。
幸い未成年だし、被害者だ。
マスコミが聞きつけたところで名前は公表されないだろうから、うまくごまかせるかもしれない。
不安は大きかったが、自分が見つからないためにも椿は少し現場を離れてから電話する。
今まで彼女とつながっていた電話も、警察に電話するために切った。
自らの手で彼女との関係を断ち切るようで辛かったが、これが彼女を救う最良の方法だと信じて。
警察への電話では女子高生を集団で囲む男たちがいると言うことを話した。
電話を受けた警官は、すぐに行くから決して間違えた考えを起こすなと椿は言われた。
確かにそれが正しいのかもしれない。
でも、好きな子が襲われるのを黙って見ていられる男なんてこの世にいるのだろうか。
もし、彼女が襲われそうになったら、椿は間違いなく飛び出す自信があった。
警察の言葉だとか、自分の身だとかは関係ない。
彼女さえ無事だったらいい。ただ、彼女はこのことに負い目を感じてしまうかもしれない。
だから、その前に見つけてくれ。
切実にそう願った。
そして、その願いが届いた。

彼女らしいと言うのか、彼女は通学中、不審な動きをする男に興味を持ち後を追っただけだった。
こっそりついていったつもりが、逆に男の仲間につけられていたことには気づかなかった。
そのことに気付いた時はもう手遅れで、逃げ道を阻まれていた。
思わず後ずさるが、男はどんどん距離を縮めていき、手を伸ばせば届くと言うところで記憶は途切れたそうだ。
だから男たちが何をやろうとしていたのか、何が起きたのかは知らないらしい。
さらに何か聞きたそうな警察を、椿はこいつが回復してから出直せと半ば強引に話を打ち切らせる。
椿自身も警察から聞かれ、これには彼女のほうが警察と結託するから始末に負えなかった。
どうやって見つけたのかなんて、それこそ愛のなせる技なのではないかと思うが、彼女も警察もこの言葉を嫌うだろうから、もしかしたらだれにも打ち明けずに終わるかもしれない。
椿は適当に言葉を濁して事情を話したが、彼女も警察も、納得したようには見えなかった。
それでも彼女のことがあるから、と二人とも解放された。
途中まで見送りしそうな警察の行動も丁重に断る。
彼女と二人の時間を邪魔するものは、さすがの警官だとしてもいただけない。
彼らはこれから、捕まえた男たちの取り調べを行うだろう。
今わかっていることと言ったら、男たちは最近の不況に乗じた物取りだったらしかったと言うことのみ。
愉快犯かどうかは知らない。これは追々わかっていくことだ。
そして今、椿は彼女の自転車をこいでいた。
彼女は後ろから手を回し、ぎゅっと椿を抱きしめている。
体を椿に預けているのか、彼女の頭が背中に触れる。
「電話、お前かけたの知っていたか?」
椿は聞いた。警察に電話のことを話す前に、彼女に確認したかった。
背中越しに、彼女が顔をあげたのがわかった。
それから首を振るのも。すべて背中の感覚を通じて伝わってくる。
「たぶんお前必死だったときにボタンにぶつかったんだろうな。それを頼りにずっと探した」
椿はどうやって見つけたのか、その一部を彼女に話した。
珍しくしおらしい彼女は、今回何も言わない。
気を失わされた反作用か何かだろうか。
そうだとしても静かな彼女の存在と言うのは調子狂う。
無意識に、椿は舌打ちした。
「椿君……怒っている……?」
ようやく彼女が口を開いた。
椿の舌打ちが聞こえたようだ。
その言葉に、椿は今自分が怒っていたことを知る。
何も言わなかった彼女に、何もできなかった自分に、こうなってしまったすべてに。
たぶんそれら全部に対して怒りの気持ちを持っている。
椿は自転車を止めた。
後ろを振り向き、彼女と向かい合う。
「おまえな、なんで言わなかったんだ」
言葉に若干とげがにじんでしまったが、椿は怒りを押さえることができない。
「何を?」
彼女のほうは何が起きたのか理解できていないご様子。
キョトンとした表情、純粋な二つの瞳で椿と目線を合わせる。
普段はかわいいと思える表情も、理解できていないということが椿をさらにイライラさせる。
「お前入学式の時もそうだっただろ。気になってふらっと後を追ったら何か事件に巻き込まれて!」
あの時はただ落とし穴に落ちただけだったからよかった。
今までも基本的に学内で済むような問題だったからよかった。
しかし、今回はそれと違う。
「気になるのは分かるが黙っていなくなることはするな!少なくとも俺には連絡しろよ!」
何かを見た。追いかけてみたい。それだけでも伝えてくれていたら。
そうしていたら、ここまで恐怖を見なくて済んだのかもしれない。
少なくとも、自分の目の届かないところで行方不明になるようなことにはなってほしくなかっただけなのだ。
「……ごめん」
うつむき加減だった彼女は顔をあげてそう言った。
そして椿の顔を見た彼女は驚いた顔をする。
きっと今、自分の顔はとてもひどいものなのだろう、そう椿は思った。
自分の顔は見れないからわからないが、彼女の瞳に映る自分の姿は怒りを通り越して泣きそうだった。
危うく彼女を失うところだった。
彼女が危険な目に遭うところだった。
それらはみな、大事に至る前に防がれた。
「ありがとう」
ぎゅっと、椿を抱きしめる腕を強めて彼女が言った。

その後、椿の荷物を取りに一度学校へ寄ったが、すでに情報が伝わっていたのか荷物を受け取るとあっさり返してもらえることになった。
特に何も聞かれなかったことに取り合えず椿は安堵した。
反省文を書かされることもなかった。
余談ではあるが、椿の持ち物も何一つなくなることもなかった。
これはファンの子達がお互い相手をけん制し合ったたまものともいえる。
それから、今回の一連の本当の出来事は苗床家の耳に入ることもなかった。
この事件はこれで終わったが、今でも椿の疑問に残ることが一つあった。
あの時、どうして苗床は俺に電話をくれたのか、ということだ。
本人は電話していないと言う以上、色々とキーがぶつかった結果そうなったのだろうが、普通やみくもに押したところで出やすい番号と言うのは決まっている。
――アドレス帳の一番上とか、着信・発信履歴の一番上とか。
可能性としてはどちらも花井だろうけれど……。
椿がその答えを知るのは、まだまだ先のことかもしれない。
椿×かのこで書いてしまった!…というか、椿→かのこ?w
えーと、一時保存に書いたものを加筆修正しました。
かのこさんの首突っ込み具合と言うか、好奇心の旺盛さは半端ないと思います。
このままだったら、いつか事件に巻き込まれてもおかしくはない、というか違和感ないって思ったのがベースになっています。
この後から椿君が過保護なくらい送迎を徹底すればいいと思います^^←
まぁ…ネタが被っていたらすみません。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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