はじめての授業

最悪だ…。
そう思いながら晴香は教室の扉を開けた。
最近授業をさぼり気味の上に、授業中の居眠り。
別に授業中に内職している人や寝ている人は少なくないのだが、欠課数が多いためか目をつけられていたのだろう。
おかげでみんなの前で、指名され、最近緩みすぎだなどなどの小言を言われた。
それだけでなく、放課後にこの教室に来るよう言われている。
何の罰則なんだろう、と思いつつも、来なかったら単位は与えられないだろうという恐怖もあり、しぶしぶながらに来た。
明かりのついていない教室のスイッチを入れる。
夕陽の暗い明かりが一気に明るくなる。
先生はまだ来ていないようだ。
時間まで指定しておいて…とは思うが、先生も先生で忙しいだろうからとしばらく待つことに決めた。

少しして、ドアが開く音がした。
「せんせ…。」
何の用なのかわからないが、やっと来たかと思った晴香は、しかしその言葉を最後まで言うことができなかった。
入ってきた人物は教師ではなかった。
それでも晴香の見知った人物。
寝ぐせのついた髪。カラーコンタクトで隠してはいるが、本当は赤い左目。
そう、その人物は斉藤八雲だったのだ。
「八雲君…?」
八雲の方も晴香に気づいて、驚いたようだった。
だがそれも一瞬で、大あくびしたかと思うと窓際の席に腰掛けた。
いまにも突っ伏して寝てしまいそうだ。
ちなみに晴香はドア側の席、八雲の席から真横に三つ、四つほど離れたところに座っている。
微妙に近いとも遠いとも言えない距離。
まるで今の二人の精神的な距離に近い。
晴香にとって斉藤八雲という人物は、一言で言うと苦手な人、だ。
まず何よりも口が悪い。
失礼なことを平然と言ってのける。
もちろん悪いと思っていない人間に反省の言葉を求めるのはお門違いだ。
その一方でとても優しい面を持っていることも知っている。
なんだかんだ言いながらも、晴香は何度か八雲に命を救われていた。
そのために八雲がどれほど焦ったのか、晴香は知らないが……。
それゆえに、憎むに憎めなかった。

「や、八雲君は、どうしてここに…?」
沈黙に耐えられなくて晴香は聞いた。
しかし八雲は無視を決め込んだのか、本当に寝ているのか、後頭部をこちらに向けたまま返事をしない。
やっぱり苦手だ。晴香は八雲に対する認識をそう強化する。
先生が早く来てくれれば、この状況も解決できるのかもしれない。
そう思うのだが、相変わらず呼び出した教師は来る気配がない。
時計を見てみると、八雲が来てからもう十五分がたとうとしていた。
ここまで来ると、忘れたのでは?という疑問も首をもたげるようになる。
仕方ないので、晴香は友達から借りたノートを取り出した。
授業について何か聞かれるなら、あらかじめ目を通しておかないと答えられない。
そう思うのだが、八雲の存在と先生が来ないという事実が晴香から集中力を奪う。
ノートを見ているのだが、頭に入らない。
「あ…あの…八雲君…?」
もう一度おずおずと声をかけてみるが、やはり八雲の反応はない。
やはり迷惑なのかなぁ…。
おしゃべりだとか、トラブルメーカーだとか、いろいろ言われているからなぁ。
思い返してみると、八雲に対してマイナスイメージを与え続けているのかもしれない。
「ねぇ…八雲君は、なんでここに来たの…?」
もう一度晴香は尋ねる。
とにかくこの無言の状況を打開したかった。
まるで世界から切り離され、孤立した感覚を味わっているから。
もしかしたら八雲はいつもこんな感覚を味わっているのかもしれない、頭の片隅でそんなことを考える。
「私は、先生に呼び出されたからよ。」
言えば何か言ってくれるかと期待したが、やはり八雲は何も言わない。
「…君は馬鹿か。」
あきれた口調で八雲が言った。
やっと口をきいてくれたことでうれしかったはずが、一瞬のうちに冷めた。
「ば、馬鹿って何よ!!」
「言葉の通りだ。」
体を起こした八雲は頭をガシガシと掻いていた。
相変わらず、いつ見ても寝起きのような顔をしている。
「君が見たのは、その先生の双子のお兄さんだ。確かに先生は君を叱ったが、呼び出しはしていないそうだよ。」
そう言われて、晴香はいくつか思い当たる節のあるエピソードを思い出した。
先生がいくら待っても来ないこともそうだが、先生に呼び出された話をした時に友達はみな奇妙な表情を浮かべていた。
「…って、もしかして最初からそのことを知っていて…!!」
「きかなかっただろ。」
しれっと言う八雲が今は恨めしい。
何のために私はここで人待ちをしていたのだろう……。
そこで晴香ははっとした。
「ねえ、だとしたら何で私が呼ばれたの?八雲君に言えばいい話じゃないの?」
「僕は教育学部じゃないからね。小学校の先生のまねごともごめんだね。」
「わ、私だってまだ二年生だから、実習もやったことがないってば……!!」
「僕が聞いているから、教壇に立つ練習だと思えばいい。」
この子供たちは、小学校と言う場にあこがれていたのだから。
そういう八雲の眼はどこかさびしげだった。
「じゃ、じゃあ…。」
なにも用意していないところで、アドリブでものを教えるなんて無理だ、晴香はそう思いつつも、“授業”を始めることにした。
なにも用意していないこととまだ小学校に上がっていないことの二点から、算数を教えることにする。
黒板に、「1+1=2」と書く。
私が一個のリンゴを持っていたとして…と、わかりやすいようにたとえを使う。
八雲はつまらなさそうにあくびをしているが、仕方ない。
大学二年生相手に小学一年生の授業は確かにつまらない。
それでもちゃんと聞いているらしく、時々、「どうして3になるのか聞いている子供がいる。」などと口をはさむ。
完全に説明は晴香に任せているらしかった。

「学校始まって間もないころ、遠足で轢かれたんだ。」
あたりが暗くなった時、ぽつりと八雲は言った。
どれほど続ければいいのか分からない“授業”は、八雲の「ありがとうと感謝している。」という一言で終わった。
そして、暗くなったから送るとか言う珍しい申し出に晴香は甘えることにした。
トラブルメーカーがトラブルに巻き込まれて僕の周りをうろつかれると迷惑だからな、と言うのが八雲の言い分だ。
素直じゃないんだな、晴香はそうとらえることにした。
「授業ってどんな感じだろう、そうやって楽しみにしていた中での事故だった。」
事情を知りたげな晴香に、経緯を説明する。
「子供たちはどんなことを学ぶか楽しみにしていた、そのことが未練になった。」
なんだかんだ言いながらも、八雲はちゃんと説明してくれる。
「そして、先生の方はそんな子供たちがとどまっていることに未練を持った。
一度でいいから、学校で学ぶという体験をさせてあげたかった。」
小学校に行っても、ただ一方的に話を聞くだけで、それは授業と呼べなかったのだろう。
生徒の意見や考えをきいて、先生が教え方を変えたり、もっとわかりやすく教える方法を考えたり、授業と言うのはそんな双方向なものなのかもしれない。
だから八雲は、子供たちの発言を晴香に伝えたのだろう。
晴香が教える中で、八雲が子供たちに教えたら、それは小学校の授業ではなくなるから。
ふわぁ〜っと、暖かい風が吹いた。
「ありがとう、だって。」
八雲が言った。
「あんなので申し訳ないけれど、やっぱりうれしいね。」
そしてマンションのエントランスで、晴香と八雲は別れた。
またねの言葉もないけれど、それが八雲らしい。
しばしその後ろ姿を見送ってから、晴香は入ることにした。
テーマが「二人っきり」でした。
これは、時間の設定に悩みました。
仲良くなった後にするか、一巻のどこかの時間にするか。
なんとなくそこまで仲良くなっていない時の二人っきりのシチュエーションを想像したかったのです。
で、当初は二人だけの補講のつもりでした。
ただ、共通の授業が思いつかなかったことと、そうしたら先生がいるから二人っきりではないよなーと思ったことの二点から途中で挫折。
ってか、ただ単純に、話がすすめられなかったというのもあるのだが。
それで、幽霊さんという落ちになりました。
まぁ、それゆえに、甘くはないよな…ハハハ。なんで裏に持ってきているんだろう。(笑

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